西宮市の「鳴尾町・上鳴尾町」ってどんな街?
目次:【西宮市の「鳴尾町・上鳴尾町」ってどんな街?】

西宮市の南東に位置する鳴尾町と上鳴尾町。阪神電車の「鳴尾・武庫川女子大前駅」や国道43号線、旧国道などが通り、大変便利です。現在では閑静な住宅街と活気あふれる商業エリアが共存していますが、長い歴史と自然に恵まれた地域です。そんな鳴尾町と上鳴尾町はどのように発展してきたのか、町名の由来はなんでしょうか?
(にしのみやデジタルアーカイブ、町名の由来を参照させていただきました。)
鳴尾町・上鳴尾町の歴史と町名の由来
鳴尾という名前は平安時代の和歌にも詠まれ、当時から知られた場所でした。もともとは、ほとんどが海で、武庫川が氾濫するたびに砂や土砂が堆積し、いくつかの砂州が形成されていきました。その一つに葦葺きの家が集まった集落があり「鳴尾」と呼ばれていたのが始まりのようです。「鳴」とは、なだらかな傾斜を意味し、砂州の先端に位置していたことが、地名の由来だと考えられています。
鳴尾の北側に位置する一段高いエリアを「上げ(アゲ)」を意味する「上鳴尾」と名付けられました。当時、漁業も盛んで、現在も「洲崎」や「中津浜線」などの地名にその名残が見られます。
室町時代には、海岸線が南下し、新たにできた砂地が農地に開拓され、鳴尾町の人口が増加しました。当時の中心地は、現在の鳴尾町付近で「本郷」と呼ばれていました。現在でも国道43号線に「本郷」という交差点や、ららぽーと甲子園の東側の道路の「本郷学文筋」にも名前が残っています。
当時は漁業も盛んで、現在でも「洲崎」や「中津浜線」などの地名に、その名残が見られます。
いくつもの寺が創建されるようほどの村に成長した鳴尾。
しかし、武庫川が近くに流れているにもかかわらず水不足で困っていました。
暴れ川の武庫川には強固な堤が築かれ、取水口を取り付ければ増水時そこから決壊する恐れがあり、水を引きことができず、農業用水に適当な規模の河川は、古くからの村が水利権を握っていました。
農地としての歴史が浅い鳴尾村はどこからも水が引けなかったのです。
16世紀には大干ばつが起こると、水を巡って隣村の瓦林村との争いが発生。村人たちは無断で取水を試み、その結果、乱闘騒ぎにまで発展しました。豊臣秀吉の家臣、片桐且元の裁きにより、水利権は認められましたが、事件を起こした罪として鳴尾村、瓦林村の多くの関係者が死罪となりました。水を引き入れるトンネルが掘られた場所は現在の北郷公園で、義民碑が建てられています。


江戸時代には、砂地で水の確保が難しかったので、乾燥に耐える作物の栽培が試みられ、菜種や綿花の一大産地になりました。明治時代以降になると、メロンやスイカ、サツマイモが栽培されましたが、洪水で武庫川が氾濫すると苦労して育てた作物が畑ごと流されてしまうため、台風シーズンまでに収穫を終えるイチゴの栽培が注目されるました。最盛期には、鳴尾の耕地の半分がイチゴ畑となり、特産品として知られるようになりました。阪神電鉄が苺狩りキャンペーンを実施したことで、観光客が急増し、鳴尾駅には多くの人々が訪れました。


鳴尾町・上鳴尾町の今
江戸時代までの鳴尾村、小松村、小曽根村、上田新田村を、明治22年に合併して鳴尾村が発足。昭和26年には西宮市と合併しました。
阪神電車が乗客誘致を狙って広大な別荘の鳴尾百花園とその付近を整備した武庫川遊園や、関西競馬場、鳴尾速歩競馬場はその後、鳴尾ゴルフ場や総合運動場に変わって、大正末には甲子園球場や海水浴場、その後、阪神パークもでき、鳴尾地域は大変賑わっていきました。
大都市近郊の風光明媚な観光地から、別荘地、住宅地へと変貌していったのです。
現在の鳴尾町は、こうした豊かな歴史を持ちながら、現代的な生活環境が整った魅力的な街です。阪神電鉄の高架化工事に伴い「鳴尾駅」が「鳴尾・武庫川女子大前駅」となり、駅前が整備されました。交通の利便性が非常に高く、大阪や神戸へのアクセスも良好です。駅周辺にはスーパーマーケット「ライフ」や「ららぽーと甲子園」があり、日常生活の利便性も充実しています。また、地域には歴史ある神社や寺院が点在しており、町の歴史を感じることができます。

鳴尾町は、歴史と現代の魅力が融合した住みやすい街であり、静かな住宅街と活気ある商業エリアが共存しています。今後も地域の発展とともに、その魅力がますます増していくことでしょう。
西宮市に住むなら、歴史と自然が調和した鳴尾町をぜひ訪れてみてください。

鳴尾町・上鳴尾町の学校区
鳴尾町 鳴尾小学校・鳴尾中学校
上鳴尾町 鳴尾北小学校・鳴尾中学校
鳴尾小学校 ←HPはこちら(兵庫県西宮市鳴尾町5丁目4-6)
鳴尾北小学校 ←HPはこちら(兵庫県西宮市学文殿町2丁目2-7)
鳴尾中学校 ←HPはこちら(兵庫県西宮市甲子園八番町1-26)
